2014年3月17日

[2014年3月17日] 第8回 Rang De Basanti

第8回 インド映画研究会
  • 日時: 2014年3月17日(月)16:00~20:00
  • 会場: 京都大学 総合研究2号館4階 415教室
  • 報告者: 山本達也(人間文化研究機構/京都大学)
  • 題材: Rang De Basanti(2006年、157分)


【議論の概要】

 「Rang De Basanti(サフラン色に染めよ)」(2006年公開)は、Delhi6などを手掛けたラーケシュ・オームプラカーシュ・メヘラー監督の社会派映画である。本作品に登場する映画制作者スーは、インド独立運動に大きな影響を与えた革命家バガト・シンらを描写した英国人看守で祖父のマッキンレイの日記を見つけ、伝記映画を製作することを決意する。制作費のないスーは友人ソニアの紹介により、デリー大学に通うD.J.(アーミル・カーン)ら大学生を役者として選んだ。初め彼らは過去の愛国者たちの気持ちを理解できなかったが、制作が進むにつれて次第に革命家に感化されていく。その頃、ソニアの婚約者であり、戦闘機パイロットのアジャイが訓練中に事故死してしまう。この事故に関して、防衛大臣は戦闘機の欠陥を認めない態度をとったため、彼らはアジャイの母親とともに抗議デモを始める。そして最後には、革命家の起こした事件を再現する形でD.J.らが腐敗した国家に立ち向かうも国家に殺されてしまう姿を描いたものであった。

 報告者は、(1)なぜアジャイは死に、D.J.たちは殺されなければならなかったのか、(2)なぜバガト・シンらがマッキンレイやスーの表象のテーマになったのか、(3)マッキンレイの日記、スーによる映画制作、それらをメタな視点から描き出す映画としての本作品の3つの表象の使い分けは何を意味するのか、という問いを設定した。(1)に関しては、この映画の示唆する「サフラン色に染めよ」、すなわちインドのあり方や未来が、殺され否定された存在によっては実現できないことを示すためであり、生き残った者たちに可能性が担保されていると述べた。(2)に関しては、暴力革命と西洋の欲望への服従及びその失敗をあえて強調するため、(3)に関しては、本作品は登場人物の死や生存を通して(1)、(2)の表象の双方を否定することで、メタな視点で描く目指す方向の可能性を逆説的に浮かび上がらせていると論じた。すなわち、この映画が望む「サフラン色に染める」こと=非暴力、異種混交性に根差した改善運動であったと語った。

 以上の報告およびこの作品に対して、出席者からは次のようなコメントがあった。まず、「サフラン色に染めよ」の含意に関して、報告者の解釈とは異なり、「殉死せよ」という意味が含まれていることが指摘された。それと関連して、腐敗した国家には暴力でも、黙って待っているのでもなく、国家の内側に入って変えていくべきという主張が本作品には含まれているというコメントが多く見受けられた。そしてこの作品で描かれた抗議デモが実際のインド社会に与えた影響の大きさも指摘された。この作品により、国家の腐敗の問題が身近な問題であるという意識の普及、市民的な政治運動のかたちを形成したという意見があった。最後にインド映画に受け入れられやすい外国人女性の描き方に関して、西欧の女性がインドの地で気高いものを身に着けていくというような表象が許される傾向を指摘する意見もあった。

(文責:渡部智之)

(報告者の山本氏。研究会後の会食における様子)

※ 題材映画に関する参考リンク
(2014年2月10日作成、3月23日更新)