2014年2月10日

[2014年2月10日] 第7回 Parzania

第7回 インド映画研究会
  • 日時: 2014年2月10日(火)16:00~20:00
  • 会場: 京都大学 総合研究2号館4階 415教室
  • 報告者: 中溝和弥(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
  • 題材: Parzania(映画祭公開2005年、一般公開2007年、米国)

【議論の概要】

 『Parzania』は、2005年に映画祭で初公開され、2007年にインドで一般公開された映画である。言語は英語を基本としながら、ヒンディー語やグジャラート語も入り交じっている。監督はRahul Dholakia(インド生まれ、アメリカ在住)、脚本はDholakiaとDavid N. Donihueによる。監督Dholakiaは2002年のグジャラート大虐殺にショックを受けて本作の制作を決意し、友人から70万ドルの予算を調達して撮影したという(SFGate, February 25, 2007)。本作は2006年(第53回)のNational Film Awardsにおいて最優秀監督賞を受賞している。

 映画のストーリーの紹介については割愛する。下記の関連リンク先を参照されたい。

※ 題材映画に関する参考リンク
 
 報告者は映画の背景となっている2002年グジャラート大虐殺に関して、(1)当時の政治的状況として州政権与党であるインド人民党(BJP)やNarendra Modi州首相(2001~2014年3月現在)の権力基盤が2014年現在とは異なって強固ではなかったことや、(2)ゴードゥラー事件から虐殺へと至る経緯をめぐる様々な疑問点、(3)事件における州政府・中央政府が行った消極的な対応、(4)暴動後のムスリムの状況や正義を求めて戦うNGOや被害者の状況について、現地での調査から得られた知見をふまえて、詳細な解説を行った。映画における事件の描写については、リアリティをかなり反映したものであると評価した。

 上記報告の後、出席者を交えて自由な議論が行われた。映画への評価をめぐっては、凄惨な事件を世界に伝えるという目的において成功しているとの肯定的な評価が一方で行われた。しかし他方では、正しさを体現する外部の視点(アメリカ人研究者という狂言回しの存在に象徴される)を通じてステレオタイプの押しつけが行われているという批判が行われた。行方不明になったParzanの父Cyrusは宗教に頼るものの手がかりを得られず、その後の調査委員会というセキュラーなレベルでの解決策が正当化されている、という構造が指摘された。苦行の果てにCyrusが思い描いた鳥葬のシーンをめぐっては出席者の間で解釈が分かれたが、前述の文脈から解釈すると、苦行の成果としてParzanがいわば成仏したという描写ではなく、Parzanの死を認識して現実世界に戻る場面として理解される。また、ヒンドゥーとムスリムの衝突においてどちらでもないパールスィーの家族を主体として描くことにおいては、第5回の研究会で取り上げられた『1947: Earth』と共通性が指摘された。

 なお今回の研究会では主として『Parzania』について検討したが、同じくグジャラート大虐殺を扱った『Kai Po Che』(2013年公開)にも議論が及んだ。ドキュメンタリー映画風に作られた『Parzania』とは異なり、娯楽映画としての完成度が高い『Kai Po Che』であるが、2002年の事件が克服された過去の悲劇として忘れられつつある現在のリアリティをむしろ反映していると指摘された。『Kai Po Che』については本研究会メンバーの高倉氏が下記のリンク先において解説を行っているので、参照されたい。
(文責:溜 和敏)


(2014年1月14日作成、3月23日更新)