2013年11月12日

[2013年11月12日] 第5回 1947: Earth

第5回 インド映画研究会
  • 日時: 2013年11月12日(火)16:00~19:30
  • 場所: 京都大学 総合研究2号館4階 415教室
  • 題材: 1947: Earth(1998年、110分、インド/カナダ)
  • 報告者: 溜 和敏(日本学術振興会特別研究員/京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

 報告者ははじめに、映画の基礎情報を紹介した。報告者による映画のあらすじは以下の通り。
  • 舞台は社会不安が高まる1947年のラーホール。裕福なパールシーの家に育つ女児Lennyは、メイドShantaの様々な友人たちと交流を持っていた。Shantaは、その中のアイスキャンディー売りのDil Navazとマッサージ師のHassanからアプローチをうけていた。
  • 分離独立が決まり、各地で暴力が激化する。グルダースプルからラーホールに着いた汽車は、虐殺されたムスリムの死体で埋め尽くされていた。Dil Navazの妹もその汽車にいた。ラーホールでも宗教暴動が広がり、移住や改宗によって難を逃れようとする人々も現れる。Dil Navazはヒンドゥー教徒に対する攻撃に加わっていたことを仲間たちに明かす。
  • ShantaもLennyの母の助言を受け入れ、アムリトサルへの移住を考える。Hassanは結婚を申し入れ、Shantaに受け入れられる。2人の情交をLennyとDil Navazは目撃してしまう。Hassanはヒンドゥーに改宗してShantaとともにアムリトサルに移住することを決める。しかしHassanは何者かに殺される。
  • 暴徒がLennyの家に迫る。暴徒はShantaを引き渡すよう要求する。使用人たちはShantaがアムリトサルに向けて出発したと嘘をつく。しかしLennyはShantaが居ることをDil Navazに話してしまう。Dil Navazと暴徒はShantaを連行していった。
  • 50年後のLennyによる語りに転じる。その後のShantaは、Dil Navazと結婚した、ラーホールの売春宿で見た、あるいはアムリトサルで見たと話に聞くのみであり、Lennyが直接に会うことはなかったという。
つぎに、映画のバックグラウンドとして、監督と原作者について説明した。
  • 監督Deepa Metha(1950~)はアムリトサル出身で現在はカナダ在住の社会派映画監督である。女性の同性愛を扱ったFire(1996)、本作、寡婦を取り上げたWater(2005)の三部作で知られる。
  •  映画の原作となったIce Candy Man(1988)の著者Bipsi Sidhwa(1938~)は、カラーチーに生まれてラーホールで育った作家である。1983年に米国に移住し、現在はヒューストン在住。Ice Candy Manは自伝的小説。なお映画の最後のシーンにおける50年後のLennyは、原作者自身が演じている。
 最後に、以下の点を論じた。
  • 宗教を超えて親しくしていた人々が分断される様子を描写し、パーティションの悲劇を鋭く伝えている。外国の観客など、歴史をあまりよく知らない人々に強い印象を残すと思われる。パールシーの子供の視点を用いることで、一見すると中立的な観点を提示している
  • 普遍的に人間が抱く狂気をテーマとした映画に思われた。ただしその後、見る側の受け止め方次第で、その狂気の持ち主が人間一般ではなく、ムスリムやヒンドゥーによる狂気と考えられ、コミュナリズムを煽る恐れもあるのではないか
  • ラジオから聞こえるNehruの演説は、悲劇の幕開けを告げるものであった。ひとつの歴史的出来事が、見方によって意義がまったく異なりうることを伝えている
  • Shantaのその後を明らかにせず、想像にゆだねることで、女性の過酷な運命を際立たせているようにも思われる。また、幼いPappuが年輩男性と結婚させられるシーンも印象的
  • 評価:エンターテイメントを期待する通常のオーディエンスとして見ると、ほぼ一貫して陰鬱な展開で、悲劇的な結末であるため、楽しい気持ちになれる映画ではない。インド映画研究の観点からは、社会派映画の商業性、性描写、恋愛結婚の扱いなどの点から重要な事例と言いうるのではないか。映画研究以外の研究への示唆、あるいは授業の教材としても有用と思われる
  出席者からは映画に対して次のような指摘が寄せられた
  • 詳細は確認を要するが、本作はインド映画ではなく、カナダ映画として理解すべきであろう。たとえば本作の性描写は、1998年当時のインド映画で認められるものではないはずだ
  • 理詰めで作られたわざとらしさ、あざとさ、上から目線が感じられる。いかにもインドを使った欧米向けの映画である。人物や宗教の描写が単純過ぎて、多様性を欠いている。Hassanがヒンドゥーに改宗するとの台詞は、真実味を欠く
  • Dil NavazとHassanは、前者が陽気で多才・多弁、後者が誠実で寡黙という、インド映画における2種類の男性像を表している。しかし一方があまりにも邪悪で、他方が殺されてしまうような三角関係の描写は、インド映画として異例だ。Hassanが誰に殺されたのかは明示されていないが、Dil Navazによって殺されたことが暗示されている
  • 女性の観点からの歴史の脱構築が試みられた1990年代の研究動向(一例として、注参照)をふまえると、女性にとってのパーティションを描いた作品と理解される。そうした観点から推測すると、その後のShantaは、Dil Navazと結婚させられたが上手くいかず、離婚して売春宿で働き、その後はアムリトサルに移住したと、(3つの噂を並列的にではなく順列として)想像される
  • Dil NavazとHassanは物語ではShantaをめぐって争うが、同一化をめぐって争っているというメタファーを読み取りうる。Dil Navazはアイデンティティを取り込み、Hassanはアイデンティティを捨てようとしている
  • インド人によるパキスタンの客体化(パキスタン表象)として見ることもできる
  • Lennyはニュートラルな立場のように見えて、実はニュートラルでない。Dil Navazをめぐり、Shantaと争っているとも考えられよう
(注)ウルワシー・ブターリア(藤岡恵美子訳)『沈黙の向こう側』明石書店、2002年(Urvashi Butalia, Other Side of Silence: Voices from the Partition of India, Duke University Press, 2000)
(2013年11月13日作成、19日追加更新)